鏡の中に、顔のない男がいた。
触れた手は何に引っかかることもなく落ちていく。目鼻のない無貌。微笑う口も温もりを帯びる膚もなく、そこにあるのは、特殊合金製のつるりとした表面だった。
「君は誰だ？」
問いかける。声も、もう生来のものではない。
「僕はベルカイン・グレイハーツだ」
電子音声が応答する。鏡像を介した自己確認。良くないことだとカウンセラーにも言われたが、今の姿になって数ヶ月、その自問自答は日課になりつつあった。
己を手放さないように。自分を見失わないように。胸に燻る種火が消えないように――心までも鋼鉄にしてしまわないように、自分自身が何者かを確かめる。
「君は粛清者だ」「では、なぜ殺す？」
――衆生救済のため。人が人のまま死ねるよう、邪悪に弄ばれる前に僕が殺す。
「なぜ拳を使う？」
――忘れないためだ。生命を奪う瞬間の、あの、なまなましい感触を。
――刻みつけるためだ。生きたかった人々の無念と恐怖を、己の体に。
「ならば、その姿は何だ？」
――それは……。
視線は鏡から、洗面台についた手に落とされた。
鋼の両手。光沢の薄い表面に、人の温もりはない。
肉体を損ない、技巧を失い、その代用として対物破壊に長けた腕を得た。角ばった鉄芯のような腕と、それに添う太いパイプに似た機構。工具じみた見かけは、事実そうだった。
爆発的な打撃力は、人を殺める実感を感じられず。
痛覚を持たない鋼の腕は、幾人殴ろうと痛みを覚えることはなく。
「僕は……ああ……」
駄目だ、と思った。
もはや粛清者には戻れない。
先へ進もうとすれば、きっと失う。せめてこれだけはと大事にしていた思いさえ失って、何のために殺めていたのかさえ分からなくなる――そんな確信があった。
ひとり、その場に頽れる。
これからどうすればいいのだろう。泣き言のような迷いは、その実からっぽだ。
ずっと昔から心は決まっていた。どうしたいのか、何をすべきなのかは分かっていた。それこそ十数年も昔から……あるいは、あの雪棲動物のような少女に出会った日から。
必要なものは何もない。
覚悟という、ただひとつの勇気さえあれば。
コメントをかく